【その1】 フランス組曲の時代背景
きままなるこころ旅にいでてみん。
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今回は『フランス組曲』そのものに踏み込む前に、この曲が作曲された当時の時代背景について触れてみたいと思います。
「この作品は、アメリカの高校生・大学生の吹奏楽団やオーケストラ、そして合唱団のために何か作曲したいと私がずっと考えていた結果生まれたものです。この国の若者には時局に即した音楽が必要で、尚且つ演奏の難易度がさほど高くない一方で、作曲家の特徴的な作風が保たれていることが大切だと考えました。
この組曲は、5つのフランスの地方に因んでいます。5つの地方とは、アメリカおよび連合軍の軍隊がフランスのレジスタンスと共に私の祖国を解放するために戦った戦場のことです。それらはノルマンディー、ブルターニュ、イル・ド・フランス(その中心がパリです)、アルザス・ロレーヌ、そしてプロヴァンス(私の生まれ故郷)です。私はこれらの地方の民謡をいくつか使いました。
フランスの平和で民主的な人々には、ドイツの侵略によりわずか70年足らずの間に3度にわたって戦争、破壊、残虐行為、拷問、そして殺人がもたらされました。その侵略者を駆逐するためにアメリカの若者たちの父親や兄弟たちが戦ったフランス各地の民謡を聞いて欲しかったのです。」
これは『フランス組曲』の作曲家ダリウス・ミヨーが1945年の出版に際して本人が書いたプログラムノートの拙訳です。 この中の以下の6つの点に注目して、作曲当時の時代背景について紐解いてみたいと思います。
「アメリカの若者たち~」とは、ミヨー(ユダヤ人)がナチス・ドイツの迫害から逃れる為、この当時アメリカに避難(1940~)していた頃に出会ったアメリカの若者たちのことです。ミヨーはカリフォルニア州オークランドのミルズ・カレッジで作曲を教える教授に就任しました。そこではミヨー自身が学んだ高度で専門的な音楽教育との違いに驚かされたのでした。アメリカでは子供の頃から一般教養の一つとしてブラスバンドや小さなオーケストラや合唱団を通じて幅広い音楽性に触れ、その後に音楽大学に進んでも専門的な音楽教育だけでなく、音楽以外の学び(文学、科学、天文学、美術、陶芸、服飾、スポーツ、乗馬など)の機会に恵まれていると自伝の中で語っています。
「5つの地方~」の並び順は、フランスがナチス・ドイツから解放された順番になっています(但し5曲目のミヨーの故郷プロヴァンスは例外です。)『史上最大の作戦マーチ』で有名なノルマンディ上陸作戦から先ず口火が切られました。当時の地図を貼っておきます。
解放された地方(都市)の順番は以下の通りです。全て1944年の出来事です。
①ノルマンディー、(6月6日〜ノルマンディー上陸作戦)
②ブルターニュ、(8月6日レンヌ解放)
③イル・ド・フランス、(8月25日パリ解放)
④アルザス・ロレーヌ、(9月15日ナンシー解放、11月23日ストラスブール解放)
⑤プロヴァンス(8月15日〜ドラクーン作戦)
ミヨーは子供の頃から体が弱く、アメリカ滞在中も持病のリウマチが時には悪化し、ベッドの中でずっとラジオを通じて故郷フランスの戦況を聴いていたのでした。
「わずか70年足らずの間に3度にわたって戦争~」とは、普仏戦争(1870~1871)、第一次世界大戦(1914~1918)、第二次世界大戦(1939~1945)のことです。すなわち、この曲は第二次大戦の終戦の年に発表されたものです。
「フランスの平和で民主的な人々〜」ですが、フランス解放の期間だけでもフランス民間人の死者は約6万人、ドイツ占領期全体も含めると約35万人が命を落としたとされています。また、自伝によると、第一次大戦では幼い頃から一緒にバイオリンを習っていた大親友のレオ・ラティルが戦死(1915シャンパーニュ総攻撃)、敬愛していたフランスの作曲家アルベリック・マニャールもフランス北部の自宅でドイツ兵との銃撃戦の末に放火されて焼死、さらに第二次大戦ではミヨーの年下の甥ジャン・ミヨーを始め、直接の或いは遠いいとこたち20人以上がアウシュビッツで犠牲になったと書かれています。
「アメリカの若者たちの父親や兄弟たちが戦った〜」ですが、フランス解放に投入されたアメリカ軍兵士は約150万人、死者数は5万2千人と言われています。その膨大かつ尊い犠牲に感謝することに加え、ナチスの迫害から逃れるために受け入れられ、音楽教育の職を授かり、作曲や指揮・演奏などの機会を提供されたことも合わせて、ミヨーはアメリカに対して無限の感謝の念を持ち続けていたのです。
「いくつかの民謡を~」とありますが、ミヨー本人はどの民謡を使ったかについて注釈を一切していません。しかしながら、実際は各組曲の中では18の旋律が使われており、そのうち11の旋律はフランス各地の民謡であり、残りの7旋律はミヨーのオリジナルであるということが戦後42年経った1987年以降、アメリカの音楽家たちの研究で突き止められたのです。この点については、次回で触れてみたいと思います。(つづく)